「人に迷惑をかけてはいけない」思考を卒業したらハッピーになれた

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こんにちは、こえりです。

さいきん「人に迷惑をかけてはいけない」という考えを、「迷惑をかけるのもかけられるのも仕方ない」と変換してみたところ、毎日幸せな気持ちで過ごせるようになりました。

子供の頃から引っ込み思案だった(内弁慶とも言う)こえりは、ずっと「人に迷惑をかけてはいけない」と考えて生きてきました。

「人に迷惑をかけてはいけない」という考えは、もともとは他人を思いやる気持ちから生まれたのでしょう。

ですが、その考えにとらわれた結果、自分や他人を「人に迷惑をかけていないかどうか」という減点法で判断するための基準として使っていたようなのです。(その反動ですぐに人に頼る他人を見ると「モヤっ」としていました……。)

「人に迷惑をかけてはいけない社会」は「迷惑な人のことは叩いてもいい社会」

「人に迷惑をかけてはいけない社会」とは、突き詰めていくと「迷惑な人のことは叩いてもいい社会」、「人に頼ってはいけない自己責任社会」にもなってしまいます。

これまで「人に迷惑をかけてはいけない」のが正しい姿勢であると信じて生きてきましたが、よく考えてみるとこえりは自己責任社会には心惹かれません。

それよりも、「困ったら頼れるし助け合える社会」「お互いさまで許しあえる社会」の方が生きやすいかも、と思ったのです。

過剰適応の結果として心身を壊したことがある身としては、後続の若い人や子供たちをそんな社会に送り出したくない、というのも大きな要因です。

そこで、「人に迷惑をかけてはいけない社会」から一人で卒業してみることにしました。

当然ですが、「人に迷惑をかけてはいけない社会」から卒業するといっても気遣いをしないとか積極的に他者に迷惑をかけるということではありません。

義務感として迷惑をなくす方向に努力するのではなく、自発的に迷惑や困りごとをカバーしたり助け合ったりするように切り替えただけなので、行動はほとんど変わりません。

たとえば電車に乗るときに、「迷惑をかけないように奥に詰めなくては」と思って奥に詰めるのではなく、「後から乗ってくる人や乗り降りする人が動きやすいように人の流れの少ない場所に行こう」と考えて奥に詰める、といった感じ。

並行して、人から迷惑をかけられてもお互いさまと思うことにし、その分私も人に頼ったり相談してみたりすることに少しずつ挑戦してみたところ、周りに寛容になれたうえに自分自身にも優しく(自分比)できるようになりました。

人に迷惑をかけないで生きていくのは無理

他者の迷惑行為を許せない人は、普段から人に迷惑をかけないように気遣っている分、できない人を見るとイラっとしてしまいがち。

ですが、実際のところそういった人が本当に誰にも迷惑をかけていないのかは少し疑問です。

こえりの友人知人にも「人に迷惑をかけないように振る舞うべき」を信条として公言している人が何名かいますが、こえりが気付ける範囲でも荷物の持ち方が邪魔になっていたり静かな場面でも話し続けていたりなど、他者の迷惑となっていそうな場面に何度も遭遇しています(笑)

本当に誰にも迷惑をかけないように振る舞うというのは、

  • 健常者
  • 前頭葉が発達しきっている年齢層(20代後半から40代前半くらい?)
  • 体調万全
  • イヤホンなどで耳をふさがれていない
  • スマホなどに注意を向けずに常に周りをうかがっている

これらをすべて満たしてやっと実現できるくらい難しいことなのではないかと思います。

多くの人はそこまでして「人に迷惑をかけてはいけない社会」を実現したいとは考えていないので、人によって「悪気の有無」「そのときの自分の受け取り方」などを基準に許す許さないといった線引きをしているのでしょう。

それならいっそ開き直って、誰もが誰かに迷惑をかけているという前提のもと、お互い大目に見ていく方が楽だと思います。

「迷惑」が許せないのは人間の特性

もともと人間は群れで生活する生き物なので、群れを生かすための行動や、群れの中で自分の地位を確保するための行動に対して喜びを覚えるようにできています。

集団からはじかれると生存確率が下がってしまいますが、人の役に立てば集団内ではじかれる可能性が減るので、誰かの役に立ったり相手から感謝をされたりすると嬉しくなるように脳に刻まれているらしいのです。

逆に、自分の属する群れ以外の集団に対しては脅威として強い敵対心を持つようにできています。

見た目や言動などによって自分と同じ属性かどうか無意識に判断しているようなのですが、「同じような文化をもっているか」、つまり「同じような振る舞いをしているか」は重要な判断基準のひとつになります。

他者に迷惑をかけた(と判断された)人が叩かれるのは、その迷惑行為によって社会の秩序が乱されるから、という理由だけではなく、「我々が迷惑と判断する言動を取った。ということは彼/彼女は我々とは異なる価値基準のもとで動いている人間とみなされる。つまり敵」といった判断のもと、敵集団の構成員として攻撃をされているのでしょう。

自分への影響がほとんどなかったとしても、他者の迷惑行為に対して脳が条件反射で攻撃的になってしまう。

このことに自覚的になれば、迷惑をかけられてイラっとしたときに「本当に腹を立てる必要があるのだろうか」と立ち止まれるようになり、人を許すハードルが下がります。

人に頼って許してもらう練習をしてみよう

人を許すことはそんなに難しくなくても、「大目に見てもらう」「許される」のはどうしても抵抗を覚える、という人は多いと思います。

こえりもまさにそれでした。

自分は許されない・頼れないのに他者を一方的に許すだけ、というのでは自分がしんどくなるだけです。

そこで、「許される」練習をおすすめします。

小さなところから少しずつ人に頼って許される練習を積んでいくと、本当に困ったときに人にちゃんと頼れるようになります。

というか、本当に困る前にヘルプを出すことができるようになるので追いつめられる機会が減ります。

最初は相手にほとんど負担がかからないようなお願いから始めてみましょう。

「両替お願いできる?」とか「ついでに私の分のお水も取ってきて」とか。

まわりの人にお願いするのが苦手な人なら店員さんに小さな要望(「氷を抜いてもらえますか?」とか)を伝えるのもありです。

お願いを受けてもらえた場合は、受け入れられた時と達成した時の2回にわたってしっかり感謝を伝えましょう。

では断られた場合は?

実は断るという行為はけっこうなストレスです。

「頼られたこと自体が嫌」「頼られたことは嫌じゃないけど内容が嫌」「どちらも嫌ではないけど断ることで相手(この場合はあなた)を不快にさせるのではと不安」など、ストレスの原因はさまざまですが、相手に何かしらのストレスをかけたことを自覚し、話を聞いてくれたことに感謝を伝えましょう。

相手の不安を解消するためにも「断られたけど傷付いたりはしていませんよ」という雰囲気を出せるとなお良いです。

ここで本当に練習しているのは、相手の反応に対して自分がどのように振る舞うかということ。

こうやって

お願いする→相手の反応が返ってくる→相手の反応を受容する

ということを繰り返して慣れてきたら、少しずつお願いを大きくして負荷をあげていくことで、頼ること・許されることへの抵抗感が減っていきます。

許されることに慣れると、逆に人を許すことへの抵抗も減っていき、お互いさま精神が育ちます。

まとめ:お互いさま精神で生きると世界が優しくなる

お互いさま精神で生きるようになると、迷惑行為や他者の行動が気になることがほとんどなくなります。

さらに、実際に人に迷惑をかけられること自体も減りました。

それまで迷惑と認識していた行為を迷惑だと思わなくなったおかげもあると思いますが、自分自身がいつもいい気分でいられるのも大きな要因だと考えます。

いい気分でいられるように過ごすのは自分を大事にすることでもありますし、自分を大事にできているというのは不思議なことに周囲に伝わります。

そして、自分で自分を大事にしている人のことをぞんざいに扱う人というのはほとんどいません。

もし今自分にも他人にも厳しくてしんどい状況なのであれば、お互いさま精神を少しずつでも取り入れることをおすすめします。